私とバイク

◆ 幼稚園児の頃:
 初めてのバイク体験は、祖父の原付の後ろに乗せてもらったこと。
 車種は不明だがカブだったと思う。
 当時、私は静岡県富士宮市に住んでおり、祖父は埼玉県入間郡だった。
 お盆や正月に祖父のもとに行くと、必ず私を原付の後ろに乗せて近所の玩具店まで連れていってくれて、私と弟のためにおもちゃを買ってくれたものだった。
 どんなものを買ってもらったのかは憶えていないけれど、原付の荷台に乗せてもらったことだけははっきり思い出せる。(モノより思い出ですな)
 ちょっと怖かったけど、バイクに乗った記憶はこのときまでさかのぼる。

◆ 小学生の頃:
 バイクにはぜーんぜん興味なし。

◆ 中学生の頃:
 ガンプラ(ガンダムのプラモデル)が全盛の頃。
 確か中学2年のときだったと思うが、模型店でスズキ「GSX1100S(カタナ)」のちょっと大きいプラモデルを見つけ、凄いカタチのバイクがあるんだなと驚いた。
 バイク好きの友人が興奮気味にカタナについて語っていたのを思い出す。

◆ 高校生の頃:
 1985年(高校2年)の夏、バイク好きの友人がTV中継を録画したビデオを見せてくれた。
 (というより無理矢理見せられた気がする)
 キング・ケニーと平忠彦が組んでヤマハ「FZR750」に乗り、トップ独走中のラスト35分でリタイヤしたあの8耐だ。
 これを見て影響を受け、しばらくは資生堂「TECK21」という男性化粧品を愛用していた(^^)。
 (資生堂はケニー/平組みのメインスポンサーで車体カラーもTECK21カラー、ゼッケンも21だった)
 ちなみにこのときリタイヤしたケニー組みに変わって優勝したのは、あのワイン・ガードナーである。

 このころは自分がバイクに乗るなんて思ってもいなかったけど、バイクに興味が出たのはこの時が初めてかもしれない。

 高校卒業直前に自転車以上の移動手段が欲しくて原付の免許を取得。
 当時いつのまにかウチに置いてあったスズキ「蘭」に乗る。
 初めて公道でバイクを運転したのはこれが初めてだった。
 ポンコツで40km/hも出なかったが、自転車のように漕ぐこともなく遠くに行けることは革命的だった。
 なにしろ私の実家は富士山麓にあったため、基本的に平坦な場所はない。
 登るか下るかしかないのだ。
 

◆ 大学1年の春:
 ゴールデンウィークだったと思う。
 後に「うだうだーず」のメンバーとなる馬場氏が、北海道岩見沢市の私のアパートにホンダ「MTX50」で遊びに来た。
 彼は高校生のときの同級生で、同じ部活だった。
 私と彼は違う大学で、彼は札幌、私は岩見沢に住んでいたが、この後長い付き合いとなっていく。
 馬場氏の「MTX50」は空冷エンジンで丸ライトの型で、50ccとは思えないほどデカかった。
 まだギア付きのバイクの経験が浅かったので、この「MTX50」でギアチェンジの練習をしたものだ。
 もちろん、初めて北海道を走ったバイクもコレである。
 春とはいえ北海道はまだ寒かったが、着座位置が高くて見晴らしがいい「MTX50」は、いつまでも走っていたいと思うくらい気持ちが良かった。

 

私とMTX50

岩見沢市の三井グリーンランド(当時)にて

馬場氏とMTX50

 

◆ 大学1年の夏:
 当時は日常の「足」となるアイテムを持っていなかったため、移動手段として原付が欲しかった。
 しかし勝手の分からない北海道では、バイクがどこに行けば買えるのかもわからなかったので、夏休みに実家に帰ったときに調達しようと考えていた。
 夏休みに数ヶ月ぶりに帰省したとき、父親が知人から原付バイクを譲り受けてきてくれた。
 初めての自分のバイクである。
 そのバイクの名前は、「スズキ TS-50 ハスラー」。
 当時は馬場氏の「MTX50」の影響と、北海道の農道などの未舗装路を走りたいと思っていたので、オフローダーが欲しかった。
 最も欲しかったのはヤマハの「DT-50」だったのだが、人気のある原付で、なかなか高価で手が出なかった。
 父親が持ってきてくれたハスラーは、空冷エンジン、二本サス、丸ライト、5速ギアの型のもので、年式はわからないがその当時でも古さを感じるものだった。
 しかし、もともとバイク好きだったわけでもないから詳しいことはわからないし、なによりタダだったので嬉しかった。(父親はきっと前オーナーに幾らか支払ったのだろうが)。

 この日から毎日、あきれるほどこのハスラーを乗りまわすことになる。
 乗り始めて1週間も経たないうちにリヤタイヤがパンクした。
 スポークホイールだったのでチューブを交換する必要があったが、自転車のチューブは交換したことがあってもバイクのチューブなんか交換したことはなかったので、情けない話し、なにをしたらいいかわからなかった。
 父親に相談してみると、新しいチューブを買ってきてくれた。
 自分の勘をたよりに、手探りでチューブを交換してみた。
 四苦八苦してなんとか交換し、走り出したが、数キロも走らないうちにまたリヤタイヤがパンク…。
 ワケがわからず家まで押して帰ってチューブを見てみると、チューブの組み付けが悪くてパンクしたのだった。
 父親に状況を話すと、新しいチューブを買ってきてくれた。
 怒られるかと思ったのだが、怒ることなく黙って見ていてくれた。
 (呆れていたかもしれないが)。

 夏休みの間、ハスラーでバイト先に通っていた。
 バイト先には小学生時代のクラスメイトも働いていて、彼はホンダ「ラクーン50」に乗っていた。
 バイトの帰りには2台で一緒に帰り、信号で停まるたびに競走をした。
 もっとも、旧型のハスラーでは勝ち目がなかったが、とても楽しかった。
 初めてのシグナルグランプリである。
 初めてのウィリーもこのとき経験した。
 (道路脇の畑に飛び込みそうになって、ヒヤリとした)
 
 夏休みも終わりに近づき、学校のある北海道に帰らなければならない。
 前述の馬場氏も、「MTX50」で北海道から山梨の実家に帰省していたので、二人で一緒に原付で北海道に向かうことにした。
 思えばこれが初めてのロングツーリング。
 馬場氏とのツーリングも最初だ。
 → 「初めての北海道ツーリング」へ

◆ 大学1年の秋:
 ハスラーは学校への通学、自動車教習所への通学、買い物、ツーリングに大活躍だった。
 北海道が病み付きになったのはハスラーのおかげかもしれない。
 岩見沢から北へ約50kmの滝川という街に、ツーリングに行ったこともあった。
 国道12号をただヒタスラ北上するだけだったのだが、50ccにとってはかなりの冒険だった。
 国道12号線は私の住んでいた岩見沢市の中心を通っている。
 隣の美唄市から滝川市までの約30kmは一直線なのだ。
 (正確には29.2km。日本一長い舗装路らしい)
 これを走ってみたくて出かけたのだ。
 ホントにまっすぐなので、北海道を満喫できたのだが、滝川に着いてからは同じ道を帰る気にはなれなかった。
 帰りは滝川からちょっと西に向かい、国道275号を南下することにした。
 道幅も広く市街地を結ぶ国道12号と違い、国道275号線の新十津川町、浦臼町のあたりはとても寂しく、日も暮れてきたのでだんだん心細くなってきた。
 このまま国道275号を南下すると月形町に向かってしまい、岩見沢市からは少し離れてしまうので、途中でまっすぐ岩見沢に向かうことにした。
 地図を見ると細いが確かに道はある。
 早く帰りたいという気持ちが、ショートカットのルートを選択した。
 しかし…………………
 行けども行けどもタマネギ畑。
 よくもまぁこんなに畑が続くものだ。
 どこを走っても道はまっすぐなのだが民家は見えず、道路も未舗装のところがほとんど。
 日も暮れてきたのだが原付のヘッドライトではとても心細い。
 今思えば20km程度の農道だったのだが、永遠に続くような心細さだった。
 無事に帰ってこれてヨカッタ。
 無計画なツーリングはドキドキする。
 病み付きになる。

◆ 大学2年の春:
 5月の連休を利用して、大学の仲間8人で旅行に出かけた。
 このとき屈斜路湖北側の美幌峠でバイクに乗ろうと決意する。
 → 「運命の美頃峠」へ

 美幌峠の誓いから2週間後には中型自動二輪の免許を手にしていた。
 思えば凄い集中力だった。
 さらにその次の週には購入するバイクを決めていた。
 その名はホンダ「VFR400Z(黒/赤)」。
 「VFR400R」のカウルレス版である。
 (当時ネイキッドという言葉は一般的ではなかったと思う)
 実はハスラーのときと同様、欲しかったのはVFRとは別のバイクだった。
 当時、北海道を走るということで、アメリカンタイプのバイクが欲しかった。
 1988年当時というのは、中型のアメリカンといっても今のようなロー&ロングのカタチのバイクは種類も少なく、ヤマハ「Virago400」が出たばかりの頃で、ある程度選択肢が限られていた。
 「Virago」は欲しかったんだけど中古でもまだまだ高く(当時消費税は導入されておらず、物品税が存在した)、予算の範囲にはホンダ「NV400 Custom」というバイクがあった。
 (その後、大人気を誇る「Steed」の前身のようなバイクである)
 「NV400」はVツイン、プルバックハンドル、ラクチンそうなシートが魅力的で、シャフトドライブというちょっと変わったメカニカルな装備も興味を引いた。
 しかし、北海道にはあまり中古バイクのタマがなく、岩見沢から札幌周辺を探しまわったのだが、見つからなかった。
 いや、正確には探している途中でもっと欲しいバイクが見つかってしまったのだ。
 それが「VFR400Z」だった。
 札幌のカワサキ販売店の倉庫に、中古車として置いてあったものを見つけたのである。

 最初に見たときは、丸ライトが二つ付いていて、ライディングポジションはものすごくレーシーなクセにカウリングがないという、「変なバイク」という印象だった。
 既にスリップオンの「BEET BACKFIREU」というサイレンサーが付いていて、エンジンをかけると、威勢のいいV4サウンドが倉庫に響いた。
 経験の浅い、と言うより免許取立てのド初心者の自分にも、あきらかに他の(一般的なインライン4のエンジンの)バイクと違うサウンドに感動した。
 見たこともないバイクだけど、パフォーマンスはやたらと高そうに見えるし、何よりこのエキゾースト・ノート!一発で気に入ったのだ。
 ノーマルマフラーではないことは、実は買ってから後で気が付いた。
 納車後に、もともと付いていたノーマルマフラーを付け替えてみてエンジンをかけてみた。
 あのときあの倉庫でノーマルマフラーが付いていたら買っていなかったかもしれない(^^)。
 BEETのBACKFIREの音が気に入って買ったことになるかも。
 
 V4のエンジン音と言うのは、どうやらバイク乗りたちの間では、あまり「イイ音」とはされていないようである。
 当時、CBR400FやGPZ400F、FZR400とかが人気があったようで、インライン4のエンジンにヨシムラ管やRPM管、モリワキモナカとか付けていると「イイ音」が出たようだ。
 それらの「音」からすると、自分のVFRの「音」は違和感があるようだ。
 しかしVFRは初めて触れる自分の中型バイクだったし、先入観もなかったので、「買う」と決めてからはベタ惚れだった。

 このあたりで友人を一人紹介しなければならない。
 前述の「美幌峠の誓い」のときに同じことを考えていた男がいる。
 同級生の「小僧」氏である。

 彼も同じ時期に中型二輪を取得し、バイクを購入する。
 彼の選択は既に決まっていたようで、マシンはヤマハ「SRX-4」である。
 彼は札幌のオートランドで新車で買った。

 お互いのバイクの納車はほぼ同時期で、納車を待つ間の数日間は、授業中だろうとバイクのことで頭がいっぱいだった。
 小僧氏は新品のヘルメットとグローブを装着して寝ていたくらいだ。
 私もその気持ちは良くわかった(しかしちょっと恥ずかしかったのでマネはしなかったが)。

 話しを戻すが、私はなんと19歳の春、VFRに乗るまで、ジーンズのパンツを履いたことがなかった。
 納車の日もチェックのシャツにスラックスで行った記憶がある。
 ホント、ド初心者だったのだ。

 いよいよ納車の日、大学の友人で通称「悪魔君」(ミラターボのオーナー。解説はコチラ)に札幌のお店まで乗せていってもらった。
 初めてVFRに乗り、札幌から岩見沢までの約40kmを走った。
 国道12号をただヒタスラ走っただけだったけど、嬉しくて感動していた。
 絶好のツーリング日和だったのを憶えている。
 購入時、オドメーターは1500kmを指していた。
 お店の人の話しによると、前のオーナーが丁寧にナラシを終えたばかりであるとのこと。
 前オーナーとはそのカワサキ販売店の店員さんの友人で、ナラシを終えた時点でスピード違反で捕まり、免許取り消しになってしまったようだ。

 ナラシってなに?ってカンジだったんだけど、とりあえずナラシは終わっていると聞いていたので、12号線で全開!しようとしたが、その加速にビビってとても全開なんかできない。
 前も後ろもクルマなんかいないし、12号線は単なる直線路なのに、アクセルが開けられない。
 初めてバイクが「怖い」と感じたのもこのときだった。
 「えらい買い物をしてシマッタ」

◆ 大学2年の夏:
 北海道も走ったが、VFRと共に静岡に帰省をして、富士・箱根・伊豆を走った。
 今思えば夏休みに北海道に居ないなんて、もったいないことなのだが、友人はみんな地元に帰省してしまうし、一人で北海道にいても仕方がない。
 また、当時の自分は里心もあったのかもしれない。

 静岡に帰ると、つくづく自分が静岡県東部出身でヨカッタと思った。
 走りのステージに事欠かないのである。
 富士山、富士五湖周辺、芦ノ湖スカイライン、箱根スカイライン、西伊豆スカイライン等々、グッドなワインディングがたくさんある。
 私は基本的にカットビ派ではないので、スポーツツーリングレベルなのだが、ワインディングは大好きだ。
 箱根スカイラインや西伊豆スカイラインは今でも走りに行くワインディングだ。

 富士・箱根・伊豆はワインディングの宝庫なので、夏休みの間はあちこちを走り回った。

 このときの夏、馬場氏が中型バイクを買った。
 彼も北海道から実家の山梨県南都留郡に帰省していて、一緒にバイク選びをした。
 マシンはホンダ「VT250Z」。
 なかなかシブイ選択だ。
 なんとなくVFR400Zの弟分のようなバイクである。
 乗りやすくて、とても燃費が良かったが、250ccなのに油圧クラッチで、強烈にクラッチが重かったという印象がある。

 ワタシのバイクライフは、こんな状態ではじまったのだ。

◆ 大学2年の秋
 北海道の秋はとても短い。
 10月に入ると、寒くてなかなかツーリングなんてできなくなる。
 11月になれば雪も降り始めるので、雪が降るとバイクにはほとんど乗らない。
 翌年の春には大学3年生になる。
 私の通っていた大学のシステムでは、3年生から東京の校舎で勉強することになっている。
 冬の北海道ではバイクに乗れないので、この秋が北海道に住んでいてバイクに乗れる最後のシーズンになる。
 襟裳岬まで走りに行ったり、富良野に遊びに行ったり、シーズン終わりを惜しむようにVFRで走り回った。
 
◆ 大学3年の春
 私が通っていた大学は2年間北海道で2年間東京というシステムが存在し、私はそのシステムにのっていた。
 キチンと進級できたら、必然的に北海道から東京に移されるのである。
 無事進級した私は、4月からVFRと共に東京都世田谷区深沢という街に住むことになった。
 北海道岩見沢市という田舎から、東京都世田谷区という都会へ、すごいギャップを乗り越えて、新しい学生生活が始まったのである。

◆ 大学3年の夏
 当時、週末の深夜の第三京浜保土ヶ谷P.Aは、ライダーたちの溜まり場だった。
 時には毎晩のように第三京浜に出かけていった時期もあった。
 そんなバイク乗りのことは「ダイサンズ」と呼ばれたりしていた。
 また、カタナやニンジャ等の大型バイクの人気が高まり、限定解除(現在では死語)するライダーが増えてきたのもちょうどこのころだった。
 大学の友人も次々と二輪の免許を取得し、最新の中型に乗るようになった。
 ちょうどこの頃は、オートバイはちょっとしたブームの最中で、新しいバイクが続々と登場してきたのもこの時期だ(名車「ゼファー」が登場したのもこの頃)。
 しかしVFRを買い換えたくなるような中型バイクは無く、どうせ買い換えるなら大型バイクにしたかった。
 それに、第三京浜のような場所では400ccではものたりなく、私も大型バイクが欲しくなってきていたのだ。
 こんな時期にみんなで北海道ツーリングに行っている

◆大学3年の秋−冬
 満を持して「限定解除」をする決意をする。
 手始めに「RTCミタカ」という二輪道場に通うことにした。
 大学の授業の合間を縫って、世田谷から三鷹まであしげく通ったものだ。
 この二輪道場には約半月通いつめた。

 「RTCミタカ」の指導はとても厳しかったけれど、おかげで府中の限定解除試験を4回でパスすことができた。1989年12月14日、確か雨の日の合格だったと思う。
 実は友人のタナリも私より2日ほど早く限定解除しており、他のみんなには黙って限定解除をした。
 突然大型バイクに乗って来て驚かしてやろうと考えていたからだ。
 タナリとはこの日の晩、二人で寿司屋に行ってお祝いをした。

 そして年も明けてすぐにNINJAを購入するに至る。
 あこがれていたビックバイクとの付き合いが始まったのだ。

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